25/12/2015

帰敬式を最初の一歩を回想として – Icaro Azevedo Matias (釋慈教)



Texto Original – 原本
http://budismodiario.com.br/kikyoshiki-resgatando-o-primeiro-passo/
20151213


Versão: Sayuri Tyō Jun



12月13日でちょうど帰敬式を受けてから一週間もたちました。これからは正式に真宗大谷派(東本願寺)の門徒になりました。当時に感じらせた感情を言葉にするには、私にとっては大変難しいことです。言葉は言語に限られて多分、言葉を超えられるのは「詩」だと思いますが、私には詩を使用しても帰敬式受けた感情は伝えることはできません。
帰敬式中頭の中に響いていたのは、過去(学習してた間)と現在(私の意志と感情)との間にリカルド先生から学んだ「仏教での最初の一歩」でした。この教えはリカルド先生の「華厳経」の講義で教えていただきました。今週にもこの教えについてちょうど本派の佐藤Cristina先生からも思い出されました。
華厳経によって「善財童子は文殊菩薩をお聞きしてから自分が限られた無知や傲慢や自己中心性などに気付かされました。疑問を解き、文殊菩薩を信用しながら目覚めを得られる仏道を進歩するのに願います。文殊菩薩は善財童子の熱心な願いをほめ讃えて善知識を探すために旅をすすめました。(最初の一歩の大切さを示しています。この一歩に仏道の実行を含み、信心を得る者は仏と同類です。)
実は帰敬式は私の仏道の最初の一歩ではありません。つまり、この帰敬式は過去の一歩であったの大改新だと思います。仏道歩みの中で色々ありましたが、この新しい機会と望みと努力と私のプライドを超す決意で改宗することに決定しました。新しい道を歩み、阿弥陀仏の大慈悲の光明へ向かうことは私にとって、昔進んだ一歩を新ためて回想するに違いないと思います。
リカルド先生がおっしゃった言葉「最初の一歩だけ絶対に忘れてはいけません。この最初の努力は一生覚えつつ、各新しい一歩も最初の一歩と違ってはいけません。」と今でもはっきり覚えています。
とても難しいことですが、これは忘れてはいけませんと思います。これには時々くじけてしまい、がっかりして無力感じますけど、長年仏道を歩んでとくに真宗で覚えたのは絶対に受動的なあり方はいけなくて如来を信じなければなりません。 我々は完全に完璧無敵、才能、純粋も親切ではありません。阿弥陀仏の無量の慈悲にまっすぐ心を込めて、しっかり信じて仏道を疑うことはありません。このような努力と正確な注意を取り戻して、毎日最初の一歩を回想しなければなりません。これが正しい道だと、ここが私の場だとこれが私の達成感で完全に阿弥陀仏は拠り所で安らかに導かれる感情です。
その日に帰敬式後で、ワギネル先生の講義で気づかされたことがありました。その場では私は善財童子ワギネル先生は文殊菩薩(仏の智慧)の役目していたようでありました。先生の感動的な言葉の中に私の限界、傲慢、プライド自己中心性に意識を持たされて、本派の佐藤Cristina先生の賢明な助言も浮かんできました「ご自分の歩みに魔羅のことに気を付けて」と。象徴的でも魔羅の存在を意識するには、自分の弱点に意識されて信心を深めます。
Yvonete 先生(リカルド先生の奥さん)によって「仏教では悪魔のことも説します。お釈迦さまが悟りを開かれる前の夜に魔羅との戦いを勝利し、つまり死と欲望と迷いの魔を敗北しました。仏教の見方では悪魔は私たち以外な存在しなくて、自分自身の中にある欠陥、欠点の影響になる無知、ねたみ、プライド、怒り、怠惰、優柔不断、頑固、気難しさ、疑いなどだと言えます。したがって釈尊の魔羅との争いはお釈迦さまご自分の消極的な態度との戦いでした。または、ご自分のインナーの悪魔との闘いでした。」と。
帰敬式後の週中に同朋のCelsoさんから、または別院の日曜礼拝でJean先生からも聞きました、毎田周一先生の言葉「釈尊はその途端までに自分以外の、外側の悪魔から仏道から離され迷い込まられていたと思っていました。つまり、その場で実はご自分が悪魔であることに気付きました。このことに目覚めたことで成仏なさったのです。これが釈尊のお悟りの内容です。ご自分存在の真実に目覚められたのです。‘我そのまま悪魔である’真実に目覚めました。そこから釈尊は他人を裁き、観察や批判することができなくなりました。ご自分こそが悪魔であることに意識をとりました。」と出会いました。
最後に、昔読みました教えを伝えたいのです。
「ほとんどの仏教の宗派では人間性質は純粋で「善」であるが、悪化まみれで、瞑想の修行は現実の清さを見つめることに向かえます。つまり、多宗派では悪人である人間性質に強調します。それで「迷い」については各宗派にも同じ経験で、「善」より「悪」を見つめることも同じようにアクセスします。「悪」の普遍性であることは仏陀にも「悪」の性質を実際であることを示します。「竹の隠喩」として、竹には焼ける可能性はありますが、火に出会えないと実に焼けません。つまり、条件としての火にあてると、燃焼は実際に現実となります。火があれば、竹は燃えてしまいます。同じように、「悪」には「善」の性質を含み、条件が現れると「善」が浮かんで「悪」を超えてしまいます。結局「悪」の性質は「善」にあり、「悪」がなければ、「善」は実現することはありません。
ですから、真っすぐ信心へ進歩することを念ずりながら自分自身の無力さを受け取って阿弥陀仏の光明の中に仏法の真を垣間見ることを願うことがこの帰敬式にとって特別だと思います。
教師や友人たちへ私の感謝の言葉を申したい、私の手をとり下さって一緒に歩み、心から有り難いです。日曜礼拝でJean先生がおっしゃったように「全員の善知識の教師の回向の大切さを見つめなければなりません。私たちまでにみ教えをずっと伝えくださいました。釈尊から阿弥陀様を知らせ、高僧から親鸞聖人まで通して、現在に過去の巨匠を代表する私たちの教師や善知識がいます。リカルド先生が講義中でおっしゃたように、善知識は根気で勤勉に仏道の歩みを導かれて大船に乗り、彼岸まで渡るご縁を嬉しき眺めています。
この私の感想文の完結として、親鸞聖人の書かれた教行信証(信の巻)で終えたいと思います。
“It is the wonderful means of achieving longevity and immortality; it is the miraculous ‘art’ of longing for the pure and loathing the defiled; it is the straightforward mind which is made to move toward Nyorai by means of his selected prayer; it is the faith in that which issues from the ‘Amida’s Prayer which is’ deeply and extensively concerned with benefiting all beings; it is the true mind as indestructible as vajra; it is the absolute faith which, through easy to enter into, is attained by only a very few; it is the one mind protected by ‘Nyorai’s’ spiritual Light; it is the greatest, most wonderful, and most excellent faith; it is the quickest path ‘to the Pure Land’ which is beyond ordinary people’s belief; it is the true cause leading to the realization of great Nirvana; it is the white path of perfect passage to be assured at the shorted possible time; and it is the ocean of faith of Suchness and of One Reality. This mind indeed is no other than the one that is born of the Prayer willed by Nyorai in order to effect our birth in the Pure Land by means of the Nembutsu”. (Shinran’s Kyôgyôshinshô – Daisetz Teitarô Suzuki – p. 113)
共に念仏の光の中で一歩を念ずりつつ、進みましょう。
南無阿弥陀仏
Icaro慈教